こんにちは, 土蜘蛛みやこです. 私には大好きなことがあります.
(1)私の愛する弱き者
私の大好きなこと, それは生き物です.
特に蜘蛛・淡水魚・野鳥といった生き物が大好きです.
彼ら彼女らの生き様は, 可愛らしく, 美しく, 力強い.
例えば, シロザケ.
シロザケは産卵期に川を全力で「遡り」, 上流で産卵し, 産卵後は死して尚, 子の餌となる.
生き物の本能たる”子孫の存続”と”系統の存続”のために生きる姿は「八面六臂」と言わざるを得ない.
しかし, このように力強い生き物たちも近年では人間たちに生活を脅かされている「弱者」と言えます.
彼らは人間に言語で訴えかけることができず, 人間活動に抗うことすらできません.
そこで近年では, 「生物多様性を保全しよう」という動きが盛んになっています.
しかし, 矛盾するようではありますが, 生物多様性の保全の主目的はあくまで「人間活動」です.
例えば, 人間に直接的に役に立っていないと思われている生き物Bがいると仮定しましょう.
人間は生き物Aを食べて生きています. 生き物Aは生き物Bを食べて生きています.
この時, 生き物Bが絶滅した場合, 生き物Aの生活が脅かされるため, 人間たちは困る.
このように, 現状人間の役に立っていないと思われる生き物たちも, 生態系の一員としては重要な位置にある可能性があり, ある生き物が絶滅した場合の損失は, 実際に絶滅しないとわからないのです.
また, 近年では生き物を「種」単位でなく, 種未満の「集団」単位から保全しようとする動きも高まり, 遺伝資源の保全の必要性も叫ばれています.
確かに生物多様性の保全は必要です.
しかし, 我々は人間に生まれた以上, 人間活動をしなければなりません.
そのため, 人間活動と生物多様性保全, 双方のシナジーを理解し, バランスをとらなければなりません.
しかし, 昭和以前は今ほど生物多様性の重要性が認知されず, それらを無視した開発が行われました.
これらの責任は当然, 昭和時代以前の人々にあります. この責任は一体誰がとるのでしょうか?
レジ袋を断り, 水道の水を無駄遣いしていないからといって, 我々は無関係を決め込めるのでしょうか.
…否, 責任をとるのは彼ら彼女らの末裔, 即ち現代を生きる私たちです.
なぜなら, 私たちは嘗て行われた開発により恩恵を受けており, それに伴う責任や負担を受け入れるべきだからです.
現代を生きる我々の生活は, 生き物たちの痛みを鉄床としてかたちづくられたものです.
今の日本人の生活は, 生き物たちの犠牲なしで本来存在しなかった筈の社会階層の頂点に立ち, 特権的な地位を占めているのだから, 今度は生き物たちのために自分の役割を果たすべきと考えられます.
(2)親ガチャは存在すると断言する
上記のことは人間の社会にも言えることです.
強者は我々弱者の痛みを鉄床として, 特権的な地位を得ています.
これは資本主義, 社会主義などイデオロギーの種別に限らず, いつでもどこでも言えることです.
「親ガチャ」を否定する人はいますが, 私は確実に存在していると考えています.
なぜなら, 生物の進化の仕組み自体が「親ガチャ」だからです.
生物は, その環境に適した個体が生き残り子孫を残し, 不適合な個体は子孫を残せず終わるという「トライアンドエラー」を繰り返して進化してきました.
このプロセスは「自然淘汰」「自然選択」などと呼ばれています.
これは人間という生物にも言えることで, 社会に適した人, 不適合な人は必ず存在するのです.
生まれつきの見た目, 家庭環境など其々で異なっていて当たり前であり, 「親ガチャ」がないわけがないのです.
しかし, 私がここで述べたいことは, 「親ガチャが存在するから政府(∈強者)に責任をとれ」ということではありません.
政府が補助金を与えたところで, 受給者が使い方を弁えていなければ税金の無駄です.
生物多様性保全の場合とは異なり, 寧ろ真逆で, 人間社会に於いて親ガチャの責任をとるべきは我々弱者自身です.
なぜなら, 私の人生を生きるのは「私」だからです.
どんなに文句を言っていても誰も助けてはくれません.
我々弱者がまずすべきは, 「親ガチャ」の存在を受け入れた上で, 自分を変える努力をすることです.
シロザケ的に言うと, 自らに課せられた宿命に全力で「遡る」のです.
「親ガチャ」というものは脳のフィルターを介して観られる「概念」に過ぎません.
全ての事象は己の意味付け次第でプラスにもマイナスにも変わります.
私は, 幼少期は父親に虐待されながらも毎週宗教施設に連行され, 小中学校では虐めを受け, 高校では友達がいなく, 大学ではアトピーが悪化し, 就活も第一志望を不採用になり, 職場では毎日のようにパワハラを受けてきました.
しかし, 私は己を親ガチャ失敗とは思わず, 幸せと思っています.
これまで味わってきた挫折があったからこそ, 今の私があると思っているからです.
寧ろ, 辛い経験を誰よりもしてきたからこそ, 私にはこの「暗い」社会をひっくり返す力を持っているとさえ考えています.
これこそ, 私が座右の銘とする「暗い社会の明るい網」という考え方です.
この世界に「絶対的にプラス」「絶対的にマイナス」と決めつけられる事象は存在せず, 全ては己の意味付け次第で良くも悪くもなる「概念」に過ぎないのです.
だから, 我々弱者は弱者ではないと信じています.
そもそも弱者とか強者とか, 陰キャとか陽キャとか, 個人を既存の分類体系に振り分けること自体がおかしく, 私は私であるべきです.
チー牛だの陰キャだの自分自身にレッテルを貼って, 勝手に全てを諦めるのはもうやめましょう.
私たちは弱い者の痛みを理解することができる, 真の強者だ.
※この思想が万人向けでないことは理解しています.
私の他者に対する努力の強要に関する考え方はこちらの記事をご参照ください.